梅澤浩太郎のブログ。

東日本大震災を仙台で被災した私の経験~10年の節目の記憶~

 
東日本大震災を仙台で被災した私の経験~10年の節目の記憶~
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梅澤 浩太郎
1987年12月生まれ。群馬県在住。会社を辞めたいけれど辞められない人向けに無料メール講座をはじめました。「将棋マッチ」にて、将棋を教える仕事もしています。

東日本大震災を仙台で被災した私の経験~10年の節目の記憶~

東日本大震災が起こったとき、私は仙台にいました。

あれから10年経ったにも関わらず、当時のことはかなり鮮明に覚えています。

とはいえ、いつかは忘れてしまうかもしれません。

これまで震災のことはなぜか書いてきませんでした。

震災から10年の節目に、まだ覚えていることを書き残してみます。

大学にいるときに地震が起こった

当時、私は東北大学の大学院1年目の終わりごろ。就職活動をしているころでした。

2011年3月11日は午後2時半過ぎ。私は大学の青葉山キャンパスの大学生協で履歴書を買って、研究室に戻ろうとしていました。

私はエレベーターで研究室のある3階に行くつもりでしたが、ボタンを押してもなぜかエレベーターが動きません。不思議に思いつつも、仕方なく階段に向かおうとしました。(後でかわったのですが、地震に備えてエレベーターが停止していたようです。)

 

そのとき、午後2時46分に地震発生。震源に近いので、震度は7か6強だったでしょう。あまりに強烈な揺れの大きさだったので、「これはただごとではない」と直感的に感じました。

揺れが収まったら、避難訓練通りに、とりあえずキャンパスの中庭に移動。そこで研究室のメンバーとも合流できました。余震が来ないかしばらく様子を見つつ、乾パンと水をもらって解散になりました。(このときもらった乾パンと水に、後で救われることになります。)

原付バイクで一人暮らしの自宅アパートに帰った

建物内に入ることは危ないことはわかりつつも、みんなで物理A棟3階の研究室にもどって、ノートパソコンだけ素早く回収。原付バイクに乗って、一人暮らしの自宅に帰ることにしました。

私の自宅アパートは八木山にありました。キャンパスのある青葉山のとなりの山なのですが、いつも通る「八木山橋」が通行できなくなっているという情報をキャッチし、別のルートに向かいました。信号機も止まっていて、車は大渋滞。原付だったからこそ、車の脇を通って進めました。

しかし、通るつもりだった別のルートも、土砂崩れのために通行止めになっていました。それでも、さらに遠回りをすることで、なんとか通れる道を見つけて、自宅にたどり着けたのです。

電気と水道の止まった自宅で一人で過ごした

自宅に帰ると、木造2階建てのアパートは無事でした。ただ、電気も水道も止まっていました。プロパンガスだったのでガスは使えましたが、ガスだけ使えてもあまり意味がありません。

人がたくさんいる避難所に行くよりは自宅の方が快適に思えたので、そのまま自宅にいることに。後で聞いてみると、大学の友人の中には学校の体育館などの避難所にいった人も多かったようです。

 

携帯電話も通じませんでしたが、とりあえず群馬県の実家に連絡した方がいいと思い、近所の公衆電話に行って「無事だ」ということだけ伝えました。近所のお店はどこも営業していないので、食べ物は手に入りません。暗い部屋の中で、大学でもらった乾パンをかじって水をちびちび飲みつつ、長い夜を過ごしました。

電気がないとあらゆることができなくて、かなり不便でした。乾パンがなければ空腹が辛かったと思うので、本当に助かりました。

食料と水を確保しつつ電気と水道の復旧を待った

翌日になると、電気が使えない中、お店も商品を売ってくれていました。誰もお店を襲撃したりせず、どのお店でもみんなきちんと列を作っていたのがすごかったです。助け合いの精神があったと思います。私も列に並び、カップラーメンを調達しました。

 

当時使っていたiPodにはFMラジオが付いていたので、これで情報収集。近所の大学に給水車が来ているという情報をキャッチして、水をもらってきました。

その大学は避難所になっていて、そこに張り出してある新聞で、はじめて津波の被害の大きさを知りました。ただ、映像ではなく写真だったので、どれだけすごい被害だったのか、イマイチつかめていませんでした。

給水車からもらった水と自宅の使えるガスでお湯をわかし、カップラーメンを食べられるようなりました。こうなると、あまり不安もなくなりました。布団にくるまってじっとしていれば、とりあえず死ぬことはないかなと。

近所に住む友人宅に歩いて行って会ったりもして、孤独もそれほどありませんでした。

 

遠くに住む友人から「大丈夫?」というメールがたくさん届いて、それはありがたかったのですが、あっという間に携帯電話の電源がなくなりました。その後、停電がなおるまで通信手段はないままでした。モバイルバッテリーは大事です。

私は一人暮らしだったのでわりと気楽だったのですが、幼い子どもや高齢者が家族にいる人は、本当に大変な状況だったと思います。それでも、誰もパニックにならず、みんな秩序だって行動していたことが強く印象に残っています。

 

あとはガソリンスタンドにものすごく長い列ができていた風景は、今でも忘れられません。私の場合は、原付にガソリンがそれなりに残っていたので助かりました。災害のことを考えると、つねに燃料はそれなりに入れておく方がいいですね。

仙台から山形と新潟経由で車で群馬県の実家へ

たしか水道が復旧がしたのは14日でした。トイレにためっぱなしになっていた便も、ようやく流せました。14日の朝には、電気も復旧。ケータイが充電できて、パソコンのインターネットもつながり、なんとか生活できる状態になりました。とはいえ、仙台にずっといるのは望ましくはありません。

 

ありがたいことに、大学の研究室の教授と助教が車を出してくれて、学生を実家まで送り届けてくれることになりました。たしか14日の夜だったと思うのですが、私を含む大学院1年生の3人は集合して、そのうちの一人の家に泊まりました。

翌日、助教の先生が車で迎えに来てくれて、教授の車と2台に分乗して、仙台を出発。群馬に帰りたい私や東京に帰りたい後輩もいたのですが、東北自動車道は通行止めになっていたので、直接南に向かうわけにはいきません。

まず、日本海側の山形県に向かいました。山形県でサービスエリアに寄って、そこで久しぶりにまともな食事。そのおいしさに、みんなで感動してはしゃいだのを覚えています。

 

山形から南に向かって、新潟に到着しました。関東地方に帰る人は、新潟駅から上越新幹線を使います。さらに車で石川県に向かう研究室のメンバーとは別れ、新幹線に乗って群馬県の高崎駅に着きました

そこから実家の最寄り駅である八木原駅まで、本来は在来線で移動するのですが、なんと計画停電の影響で電車が動いていませんでした。親に高崎駅まで車で迎えに来てもらい、ようやく自宅に帰れました。震災から4日が経っていました。

群馬県の実家から就職活動

ちょうど就職活動の時期だったので、実家を拠点に就職活動をしました。当時は4月から面接が解禁だったので、ちょうど大事な時期だったのです。仙台から持ってきた少ない荷物の中に、就活用のスーツも入れていました。

面接などのために、群馬から東京に何度も通うことに。がんばったかいがあって、その後は無事に就職先も決まりました。

 

群馬に帰ってから、津波の映像をはじめてまともに見ました。津波の映像を見たとき、「なんだこれは!」とすごく驚いたことを覚えています。

震災の直後は電気がなかったのでテレビは見られませんでしたし、電気が復旧してからもテレビをゆっくり見る余裕はありませんでした。災害の当事者には、被害の状況はよくわからないものですね。

 

群馬県なら震災の影響はあまりないかと思ったら、計画停電がしょっちゅうあったのは大変でした。しばらくすると仙台の様子も落ち着いたので、4月の中頃には仙台に戻ることに。その後は、それまでとほぼ同じ日常を過ごせました。

最後に

あらためて振り返ると、東日本大震災が起きたときに仙台にいたというのは、すごい体験だったと思います。

私が東日本大震災で学んだ最も大きなことは、津波や火災から身を守ることの大切さです。

色々書きましたが、私は死にそうになる経験はしませんでした。私が直接知る人の中にも、幸いにして震災で亡くなった人はいませんでした。

いくら揺れが大きくても、それだけでは人は死にません。電気や水道が止まると不便ですが、健康な若者には命の危機はないのです。

 

その一方で、津波に巻き込まれるとあっという間に大勢の人が亡くなってしまいます。私は海から離れた場所にいたことが幸いでした。阪神淡路大震災のときには、火災によって多くの命が失われたそうです。

地震が起きたときは、生活の不便さを気にするより、津波や火災から身を守ることをいちばんに考えましょう。

震災から10年のいま、当時を振り返ってみて、あらためてそう思います。

 

 

震災後の将棋についても書いています↓

 

 

 

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